そういった意味では・・・・
こんにちは!
コロナ禍になってから、「季節の味」というものから縁遠くなってしまったような気がしておりましたところ、とある機会に家族で入ったお蕎麦屋さんに「蕗の薹の天麩羅」の張り紙。
ええもちろんオーダーさせて頂きました。
身体の中に季節を取り込むというのがこんなにも気持ちがいいものなのかを実感したしゃちょーです。
一雨ごとに春が深まるように感じられる今日この頃、我が家の庭にも春の芽吹き。
亡き母親が植えたスズランが芽を出し、スクスクと成長しています。
母がどんな思いでスズランの球根を植えたのかは、今では知る術はありませんが、スイセンやスズランが好きだと言っていたのは覚えています。
亡くなってからかなりの年月が経っていて、ずぼらなワタシは特にお世話をするわけでもないのに、順調に増えているようです。
庭を眺めてぼーっとしていると、どこからか母が見ていて、「ったく、あんたは・・・・・」と呆れられ、ため息をつかれているような、なにかしらの「想い」のようなものを感じる時はあります。
母が植えたチンチョウゲ、スズラン、アジサイ、コケモモなどの草木は自宅にそこそこ残されているのですが、その一つ一つに何かの「想い」が残っているように思えて仕方がないのです。
存在は亡くなっても想いは残るんでしょうね。
昭和~平成にかけて活躍された放送作家・作詞家の永六輔さんは著書の中で「人は二度死ぬ、一度目はその肉体が生命を終えた時、二度目はその人のことを覚えている人が一人もいなくなった時」と書かれていたと記憶になります。(違ってたらゴメンナサイ)
早くして亡くなった母、気が付けばワタシの方が年上になってしまいましたが、そういった意味では、結構なお達者なご老人ではなかろうかと思います。
ただ少し心配なのは、散歩の後に庭を駆け回る大吉クンが、スズランの芽をバンバン踏んでいることです。